玉虫厨子のタマムシ
1)タマムシの翅の色は構造色
2)玉虫厨子のタマムシ
3)聖徳太子展に行って
4)文献を調べてみよう
5)古い文献にはどう記されているか
6)大正14年の調査のきっかけ
7)大正14年の調査結果について
8)法隆寺に玉虫厨子を見に行く
9)高島屋別館に玉虫厨子のレプリカを見学
10)山田保治博士の文献が届いた
11)再度法隆寺に
12)東大寺展にて
13)小杉博士の論文を見て
14)NHK特集
1)タマムシの翅の色は構造色
タマムシの独特の色は色素の色に加え、構造色といわれる光の干渉による色が加わっている。タマムシに光を当てて観察すると、真上から光を当てると黄色に見え、斜め後ろから当てると深い青色に見える。このように見る角度により、色が変わるのは構造色の特徴だ。構造色は文字通り構造に基づく色で、光の干渉、回折、散乱、屈折などいろいろな現象が関係している。タマムシの翅の内部にはコレステリック液晶からなるクチクラ層の外側にエピクチクラという20層ほどの層があって、これが光の干渉に関係している。しかし、この層だけだと、まるで鏡のようでタマムシらしい輝きは出ない。タマムシの翅には10ミクロンほどの六角形の凹みが一面にあって、これが平坦さを消して輝きをつくっているのだ。
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2)玉虫厨子のタマムシ
私はこれまで構造色を説明するのに、「玉虫厨子をご覧なさい。普通の色素の色は色褪せてしまうのに、構造色は1000年たってもその輝きを失っていないでしょう」といつも説明していた。しかし、実のところ、玉虫厨子を見たのは、小学校の時の修学旅行のときだけで、それもまったく覚えていなかった。私の頭の中では燦然と輝く玉虫厨子を想像していた。
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3)聖徳太子展に行って
2002年1月8日から天王寺の大阪市立美術館で聖徳太子展が始まった。ともかく玉虫厨子を見ておこうということで、見に行ったのが1月20日のことである。当日は多くの人が見学に来ていたが、私は真っ先に玉虫厨子を見に行き、そして唖然とした。おそらく多くの人が驚いたに違いない。まったくタマムシの輝きがないのである。厨子の周りをうろうろとしていると、近くの人が、宮殿部(上の部分)右側面の扉の右下の蝶番のところが光ってますよと教えてくれた。確かに、そこに鏡をおき、光が当たるようになっており、緑色の輝きがわずかに見えた。それにしても、説明には宮殿部の金属の透かし彫りの下にタマムシの翅鞘が並べられている旨が書かれているものの、それがどのような形になっているのか、タマムシがどのくらい残っているのか、須弥座(下の部分)には全くないのか、など説明がない。不得心のまま、会場を後にした。
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4)文献を調べてみよう
おそらく玉虫厨子のタマムシについては論文に書かれているだろうと思って、文献を調べてみた。インターネットなどを用いて調べた結果、近年、玉虫厨子についての詳細な調査は
1)明治21年 臨時全國寶持取調局設置に伴い、鑑査委員であった文学博士小杉榲邨氏が金具の下にタマムシが残っていることを確認
2)大正14年 濱田耕作、山田保治、梅原末治の三氏が法隆寺管長佐伯貞胤師の協力のもと徹底調査
この二つが浮かび上がった。主なる文献は次のとおりである。
1)小杉榲邨、「法隆寺金堂に置く所の玉蟲の厨子」、國華第79号(1888).
2)濱田耕作、「玉蟲翅飾考」、白鳥博士還暦記念東洋史論叢(1925)
3)濱田耕作、「玉蟲厨子の玉蟲翅飾に就いて」、東洋美術史研究
4)山田保治、「古代美術工芸品に応用せられし「タマムシ」に関する研究」(1932).
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5)古い文献にはどう記されているか
濱田博士の文献などから、玉虫厨子についての古い記述を調べてみると
1)天平19年(747年)「法隆寺流記資財帳」には「宮殿像弐具、一具金塗押出千佛像、一具金塗銅像」とあり、これは玉虫厨子と橘夫人厨子を指すらしい
2)承保2年、建久7年「金堂日記」に「後東厨子、堂内金銅小佛三尊、西厨子同阿弥陀三尊」とかかれ、東厨子が玉虫厨子を指すようだ
3)寛元年間「古今目録抄」には「向東戸有厨子、推古天皇御厨子也、其腰細也、以玉蟲羽以銅彫透唐草下臥之(此橘寺減滅之時所送也。内一萬三千佛、御高七尺)」とあり、玉蟲を使った厨子の存在を示している
4)弘安4年 僧定円の「玉蟲厨子」という歌に、「すかしなす佛のいますかさりまでさぞ玉蟲の光ますらん」
5)貞治3年「白柏子記」には「東面に玉蟲有る玉殿あり、推古天皇御厨子也、金堂の弥陀三尊を本尊に安置し給いけり」との記述がある
タマムシの記述のある文献のうち、寛元年間は鎌倉中期(1243-1247)、弘安年間は鎌倉後期(1278-1288)、貞治年間は南北朝(1362-1368)であり、このころにはタマムシは確かに存在していており、輝いていたのかもしれない。
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6)大正14年の調査のきっかけ
文献2-4)を参考に当時の事情を転載させていただく。大正十年、朝鮮(当時)慶州の金冠塚から出土した寶器遺物の中に、タマムシの翅鞘を装飾に用いているものを発見したとの報告は、当時京都帝国大学文学部にいた濱田耕作博士をいたく刺激した。タマムシの翅飾は玉虫厨子や正倉院御物にみられるような日本固有のものと考えられていたからである。年代からいうと、玉虫厨子が西暦593-628年ごろの製作、正倉院御物が724-748年の製作に比較し、金冠塚は西暦507-571年ごろとかなり古く、場合によればタマムシの翅飾が大陸文化であったことを意味するかもしれないからである。ただし、大正元年、宮崎県の西都原の古墳発掘の際、第百十号塚の中からタマムシの翅鞘が出てきたことは特記すべき点かもしれない。この古墳は西暦270-661年の間にわたるものとされているからである。
濱田博士は朝鮮総督府よりこの発掘物の調査を委嘱され、さらに、そこに用いられているタマムシの同定を京都帝国大学農学部昆虫学教室の山田保治博士に依頼した。法隆寺管長佐伯貞胤師に調査の希望をお願いしたところ、管長は快く承諾された。そこで、調査は大正14年2月、濱田耕作博士、山田保治博士に加え、濱田博士の友人である京都帝国大学文学部考古学教室の梅原末治博士の協力のもと調査が始まった。
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7)大正14年の調査結果について
玉虫厨子は上部の宮殿部、下部の台座部に分けることができる。台座部は須弥座と台座に分かれる。文献2,3)によれば、台座部は翅鞘の痕跡が認められないが、宮殿部は妻飾部を除き、多少の痕跡を残している。その中で、柱や軒回りには完存しているものを多く認めることができた。柱や長押の部分は翅鞘を前後を切り、長軸に直角に並列しているのも認められた。翅は膠などでまず固着させたものと思われる。山田氏によれば、用いられているタマムシは現在生息しているヤマトタマムシとなんら変わるところはなく、また、朝鮮の金冠塚のものもヤマトタマムシであることが判明した。元来朝鮮にはタマムシがほとんど生息せず、このことは、タマムシ翅飾品が日本から輸入された可能性を残している。
注目すべきは大正14年の調査時点ですでにタマムシで翅飾したレプリカが奈良にあったとの記述で、これはどのような過程でつくられたのだろうか、私は興味を引かれた。このとき、タマムシは約3000頭を用いたとのことで、濱田博士はこのレプリカを見学しているようだ。
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8)法隆寺に玉虫厨子を見に行く
天王寺に展示されていた玉虫厨子がもう法隆寺に戻ったのかどうか良く分からなかったが、とりあえず法隆寺に行ってみたのが3月12日のことである。小学校の修学旅行以来である。行ってみると境内の広さに驚かされた。修学旅行の生徒が二,三校来ているにもかかわらず、ほとんど気にならない。五重の塔、金堂、講堂を見学し、その後、大宝蔵院に行った。もともとあまり期待していなかったので、どこに玉虫厨子があるのか知識がなかったが、院内にある厨子を突然見つけて感激した。今度は予備知識があるからと思ったのだが、会場が暗くてなかなかタマムシの存在を見ることができない。わずかに右側面の扉の蝶番に以前見た緑色の部分を再認したにとどまった。懐中電灯を持ってきている人がいて、やはりそれなりの装備が必要であることを痛感した。厨子の脇には、タマムシを敷き詰めた金具のレプリカが置いていたが、これがなぜかタマムシがなかったといわれている須弥座の柱の部分であり、疑問が残った。
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9)高島屋別館に玉虫厨子のレプリカを見学
高島屋に玉虫厨子のレプリカが有ることはだいぶ前から知っていた。鱗翅学会が何かの機会に全国からタマムシを集めたことも聞いたことがあった。構造色の研究をするときに、実はその際に集めたタマムシが今も残っていることを聞き、それを大阪府立大から譲り受けた経緯があった。3月16日に日本橋筋にある高島屋別館に見に行った。高島屋資料館は別館の3階にあり、無料とは思えぬほどの美術品の充実ぶりである。その入り口に玉虫厨子のレプリカは置いてあった。さすがに新しく、法隆寺のものとは比較にならぬほどの、透かし金具の輝きぶりであった。タマムシはその透かし金具の下にいれてあり、近づくと緑色の輝きがなんともいえぬ色合いを出していた。私は写真が撮りたくて資料館の方にお願いしたが、残念ながら希望はかなえられず、その代わり製作過程での写真を見せてもらえるという幸運を得た。
資料館の方のお話や資料を総合すると
- 鱗翅学会が創立15周年の記念に何かやろうということで、玉虫厨子の復元が提案されたのが昭和33年のことである。しかし、多大の時間と莫大な費用が必要ということで半ば頓挫しかけていた。
- 学会の津田松苗博士が奈良県文化財委員に相談したところ、奈良市の古美術商にレプリカが置いてあることが判明し、高島屋の学会員の助力によりこれを買い取った。このレプリカには透かし金具がついていなかったので、乃村工藝社の手で復元が図られた。
- タマムシは新聞発表をして全国から集め、約15000匹のタマムシを集めることができた。
- このレプリカを解体したところ、昭和15年北村大通以下数氏が紀元2600年を記念して製作したことが分かった。
- 昭和35年9月末、タマムシ5348匹を用いて、玉虫厨子の復元が完成した。このレプリカは昭和35年11月11日から23日まで、高島屋大阪店で開催された「昆虫科学展覧会」に出品された。
レプリカを観察すると、このときの復元は上記の大正14年の調査結果には必ずしも忠実に従わなかったと見られる点があった。すなわち、須弥座、台座にいたるすべての透かし金具の下にタマムシが配置されていた点である。法隆寺に飾られている透かし金具のレプリカはこのときに作られたものであろうか。また、後ほど得られた山田博士の文献と比較すると、一部タマムシの翅鞘の向きが違うところも見られたが、かなりの部分で一致していたことは逆に注目される。いずれにしても、当時の装飾の様子を知る貴重な資料であることは間違いない。また、40年を経てもまったく輝きを失わないタマムシを目の当たりに見ることができるので、構造色の威力をまざまざと知ることができる。一方このことから、少なくとも日本にはレプリカは2基存在することも分かった。高島屋資料館の方のお話しによれば、所在ははっきりしないが、現在日本にレプリカが3基あるとのことである。
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10)山田保治博士の文献が届いた
やっと待ちに待った山田保治博士の文献4)が届いた。調査結果を文献4)からまとめさせていただくと
1)タマムシの翅鞘は剥脱したところも多かったが、宮殿部は大部分完全な形で残っていた。
2)タマムシの翅鞘は金属の唐草模様の透かし彫りの下にあり、金具の間から透けて見えるように貼り付けてあったと思われる。おそらく粘着物を用いて接着していたと思われ、翅がはがれた部分の表面は粗雑になっていた。
3)宮殿部は金具の下のほとんどの場所に翅鞘が見られているようで、以下の図および表のとおりである。ただし、図は文献4)より転載した。図の黒い部分はタマムシが見られた部分で、斜線部は*Qにあった1頭を除いてはタマムシが見られなかった部分である。また、表の内容のうち、「縦」は翅鞘が縦に配置され、「横」は横向きに配置されていることを示す。「縦横」は場所により縦または横になっていたことを示している。
4)須弥座の最上部*Qの背面に1枚の翅鞘を見出したのみで、須弥座および下の台座にはまったく認められなかった。ただし、山田博士はこのことから宮殿部のみにタマムシが配置されていたとは考えてはおらず、須弥座などに配置していた可能性を否定していない。事実、タマムシの翅の数の見積もりではこの分も入れた見積もりも同時に発表している。
5)タマムシの翅鞘の大部分は先端部と基部を切り落とし長方形型にしたものを用いており、並べるときは前後をずらして、より均一に並べられるようにしている。
6)タマムシの翅一枚の面積を18平方分とし、両端を切り落とすことで15平方分とすると、用いられたタマムシの翅鞘の数は宮殿部で2563枚と推定される。須弥座、台座すべてに用いられているとすると9083枚になる。(1平方分は0.118平方cmにあたる)
7)用いられているタマムシは翅の形や翅鞘端の鋸歯から現存するヤマトタマムシと同一種であることが分かった。同様に朝鮮金冠塚のタマムシも同一種であることが分かった。
| 部位 | 記号 | 正面 | 右側面 | 背面 | 左側面 |
| 第二通肘木 | A | 横 | 横 | 横 | 横 |
| 第一通肘木 | B | 横 | 横 | 縦 | 縦 |
| 台輪 | C | 横 | 横 | 横 | 横 |
| 頭貫 | D | 縦 | 横 | 縦 | 横 |
| 飛貫 | E | 縦 | 横 | ー | 縦 |
| 柱 | F | 縦 | 縦 | 縦 | 縦 |
| 土台 | G | 縦 | 横 | 横 | 横 |
| 葛 | H | 横 | 縦 | 横 | 横 |
| 絵様付束 | I | 横 | 横 | 横 | 横 |
| 階段 | J | 縦 | ー | ー | ー |
| 扉の内側の上下縁 | K | 横 | 横 | ー | 横 |
| 扉の内側の左右縁 | K | 縦 | 縦 | ー | 縦 |
| 扉の蝶番 | M | 縦横 | 縦横 | ー | 縦横 |
| 茅負 | N | 横 | 横 | 横 | 横 |
| 丸桁 | O | 横 | 横 | 横 | 横 |
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11)再度法隆寺に
以上のような知識を基に、4月2日にもう一度法隆寺に行ってみた。今度は懐中電灯、美術観賞用の単眼鏡をもってである。しかし、結果から見ると、かえって疑問を深めてしまった感がある。懐中電灯で照らして、単眼鏡でみても実はあまり見ることができない。そうこうするうちに、運転手さんと思われるガイドさんが厨子の左側面のDの部分でタマムシの翅鞘がはっきりと見えることを示してくれた。実際、単眼鏡で見るとほとんど原型と思われるタマムシの翅鞘が横たわっていた。ほかの部分も良く見ると正面、左側面の柱F2にタマムシらしい四角形のものが散見される。また、右側面の扉の蝶番部分にははっきりしたタマムシの翅片が見られた。それにしても左側面Dのタマムシはあまりにも新しすぎるのと、翅の両端を切っていなく、後に加えたものではないかという疑念を生じた。山田博士の論文をみても、右側面の扉の蝶番ではっきり見える部分についても、「新しきものと取変えあり」という記述があるので、そういうことがあるのかもしれない。むしろ、正面のCなど見やすい部分にほとんどタマムシが確認できなかったのが疑問であった。山田博士らはどのようにしてそのタマムシの向きまで確定したのだろうか。
現在のところ残っている疑問を列挙してみると次の通りである。
- 本当に宮殿部のすべての部分にタマムシは翅鞘は残っているのだろうか。どの程度の数のタマムシの翅が残存しているのだろうか。
- 残っているタマムシは汚れなどで見えないだけで、表面を磨けば色が再現するのだろうか。
- 左側面のDにある新しく見えるタマムシは昔からあったものだろうか。
- 大正時代にすでにあったレプリカは今はどうなっているのだろうか。3つあるというレプリカは高島屋別館のものを除きそれぞれどうなっているのだろうか。
- レプリカを造るときには詳細な調査が行われたのだろうか。
これからも、こうした点を調べながら、もう少し玉虫厨子のタマムシの行方を探ってみたい。
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